松尾山の小早川秀秋の軍勢は本当に1万5千人だったのか?

俗説では、関ヶ原の戦い時に「松尾山」に布陣した小早川秀秋勢力は1万5千とされている。
しかし、この根拠となっている旧帝国陸軍参謀本部作成「日本戦史」は、この時期の小早川秀秋の石高が52万石として計算しているのだが、実際はそのうち20万石近くもが「太閤蔵入地」であり、実際の表高は↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411815654
30万石をやっとこえる程度から、定説の35万7千石程度であったことは間違いなく、実数は8000人弱程度だったという方がつじつまがあうのである(「歴史群像」2011年2月号より)。
また、石田三成真田昌幸に宛てた書状でも小早川筑前中納言の兵力は8000名と記されており(※ただし、上記の「歴史群像」では、三成があせりからかなり兵力を水増しして誇張している例が多い書状なので信頼できないとしている)


ちなみに、「日本戦史」では表高100石につき3名を動員兵士としていて、当時の小早川秀秋が35万7千石なら動員した兵士は12,600名になるが(2.5人なら10,500名)、遠い九州からの遠征から考えると8000名が妥当。
事実、同じ北九州の隣国で表高もほぼ同じ鍋島勝茂は約7000名派遣とされている↓
http://www.geocities.jp/kazzuki2001/tenkatori.html